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ある天才の物語
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La PAGANI - nella stanza del DESIGNER GENERALE

ある天才の物語
words / Jun Nishikawa

「オレが望むクルマを作ることのできる場所、それはイタリアしかない」

「オレが望むクルマを作ることのできる場所、それはイタリアしかない」。
1955年、ホラチオ・パガーニはアルゼンチンで生を受けた。十代のはじめには、もうすでにスクラッチビュルトで好みのクルマの模型を造り出していたという。十代の後半にエンジニアリングやカーデザインを本格的に学びはじめ、二十代にはひとりでスタジオをたち上げた。キャンピングカーや家具のデザイン、レーシングカー製作など、すでにその異才を発揮しつつあった若者は、冒頭のように決心したのだった。
そして、1983年、ホラチオ28歳の年。単身、故郷を離れて、イタリアはスーパーカーの聖地、エミリア・ロマーニャ州を目指す。そこは、マセラティ、フェラーリ、ランボルギーニを生んだ、スポーツカー奇跡の地でもあった。
ホラチオ・パガーニ
ホラチオ・パガーニ
ホラチオ自身、当時のことをこう言っている。
「ボクは文字通り、裸一貫でこの地にやってきたんだ。そして、ランボルギーニの門を叩いた。クルマを作りたいんだ、ってね。もっとも、ランボルギーニでの最初の仕事は、工場のモップ掛けだった・・・」。
多くの志ある者たちは、門を叩くどころか、国を、故郷を、家を出る前に挫折してしまう。しかし、ホラチオは違った。サンタガータに辿り着き、たとえモップ係であっても門の中へと招かれて、そして、しっかりと頭角を現した。
「ジープのプロジェクト(LM002)に加わったのが最初の仕事らしい仕事だったね。そして、クンタッチ・エボルチォーネのプロジェクトに参加することができたんだ。そこでボクはカーボンファイバーの未来を悟った。もちろん、もうすでにF1の世界では常識になっていたから、(カーボンが)遅かれ早かれ、プロダクションカーの世界に来ることを確信したんだよ」。
もとより、彼はアルゼンチンにいるころから、樹脂の専門家でもあった。モーターホームやフォードトラックの架装に、FRPの応用は不可欠だったのだ。FRPを誰よりも知り尽していた彼にとって、CFRPの世界は間違いなく、明るい未来に映ったに違いない。そう、それこそ、人生をかけて挑むべき対象である、と・・・。
その第一歩となったのが、カーボンモノコックをもつクンタッチ・エボだった。そして、そのデザインフィロソフィとカーボンテクノロジーの一部は、クンタッチ・アニバーサリーへと発展してゆく。そう、ランボルギーニに辿り着いて三年後には、プロダクションカーのデザイン責任者に任命されていたのだ。
その後のランボルギーニとの関係については、また改めて、彼の詳細なインタビューを紹介する機会もあろうかと思う。ここでは、その後の事実だけを記しておこう。
1991年、ついにホラチオは自身のスタジオである、「モデナ・デザイン」を立ち上げた。ランボルギーニはもとより、フェラーリ、ルノー、日産、スズキ、ダイハツ、ダラーラ、アプリリアといった数多くのメーカー&レーシングマニュファクチュラーたちが、彼のカーボンファイバー技術を頼ってきた。それらのコラボレーションは、オリジナルプロジェクトへの原資となっていく。
そして、93年、ホラチオは、夢の実現に着手する。それこそが、ゾンダ・プロジェクトだった。
カーボンファイバー
※記載されている内容は取材当時のものであり、一部現状とは内容が異なる場合があります。